脳性まひ フェルッチオの サクセス・ストーリー さらなる向上のための長い道のり

  

プログラムの調整のために今でも人間能力開発研究所を訪れています
 

幼少のころ

フェルッチオは、医師であるご両親のもと、イタリアのヴェニスで生まれました。
未熟児で生まれ、生後3か月ごろから腕や脚の硬直が始まりました。
ご両親は2歳になった息子がかなりの問題を抱えていることに気づいていました。
そして人間能力開発研究所の活動のことを知ったのです。
是非とも息子の治療をしたいと思ったご両親は、自分たちでつくった運動と知性面のプログラムを家庭でおこないながら、人間能力開発研究所に行かれる日を待ちました。

  

お母さんに抱かれたフェルッチオの脚は
すでにかなり硬直し交差し始めていました
  

フェルッチオの脳の神経的な問題

家族が初めて人間能力開発研究所を訪れたとき、フェルッチオは3歳でした。
この時すでにフェルッチオは読むことができるようになっていました。
生活するうえで一番の問題は、脚の硬直でした。
つま先まで硬直していて、トウシューズを履いたバレリーナのようでしたし、両脚が交差してハサミのようになることもありました。

  

3歳のフェルッチオ
脚の硬直が強いです

昔ながらの診断名は「重度の脳性まひ」ですが、これは脳の皮質下部の損傷(中脳障害)です。

何も治療をしなければ、中脳障害は年齢とともに悪化します。
ふっくらとしてかわいい赤ちゃんも、身体が急速に硬くなっていきます。
程度の差はありますが、呼吸器系にも問題があって、脳への酸素の供給が十分でないために身体が硬くなるのです。
身体が大きくなるにつれて、より多くの酸素が必要となりますが、必要なだけの酸素が取り入れられないと硬直は進み、機能がうまく発揮できなくなってきます。

  

フェルッチオは小さなときから
積極的に身体を使おうとしていました

重度の中脳障害児の苦境を目にしたグレン・ドーマンは、それまで診ていた大人の卒中患者ではなく「中脳障害」の子どもたちに目を向けるようになりました。
60年以上前のことです。
硬直がひどくなり、動けないままで一生を過ごさなければならない子どもを見過ごしにはできなかったのです。

フェルッチオの挑戦

ご両親の思いは最初からはっきりしていました。
何があろうとも、息子に車椅子で一生を過させることはしない、他の子どもがしていることを羨ましそうに眺めるだけにはするまいと心に決めていました。
人間能力開発研究所の「刺激と機会」のプログラムを集中的におこなうことによって、フェルッチオは腹ばいと高ばいが上手にできるようになりました。
5歳で初めて頭上梯子を使って歩き、これは脚の硬直の度合いから見ても、驚くべき成果でした。

  

頭上梯子を伝って歩きます
  

人間能力開発研究所のプログラムを始めたその年、フェルッチオは書くヴィクトリーを獲得し、知的な能力がすでに年齢レベルを大きく上回っていることが確認されました。

  

頭上梯子は歩くためだけでなく
ブレキエーションにも使っています 胸部をより大きく
しっかりさせることを目指します
  

進歩を続けてはいましたが、脚の硬直のためになかなか歩けるようにはなりませんでした。
中脳障害の場合、歩くことが圧倒的に大きな問題です。
フェルッチオが7歳になったとき、人間能力開発研究所では、呼吸の改善のための新しいプログラムが始まりました。
フェルッチオはこのプログラムをおこなった最初の子どもとなりました。

このプログラムを開始して数か月後には、頭上梯子の横棒を指一本で持つだけで歩けるようになりました。

  

身体をまっすぐにし
ひざをロックしています
自力で歩く態勢が整いました

翌年には自力で8歩あるくことができるようになり、これは驚くべき成果でした。
それから4か月後、フェルッチオは家の中を独りで歩き、外でも少しずつ歩き始めていました。
さらに6か月が経ち、外で30分間続けて歩けるようになりました。
どこへでも歩いて移動できるようになったのです。

フェルッチオは食事のときでも座りたがらなかったとお母さんは報告しています。
やりたいことはただひとつ、歩く、歩く、もっと歩く、それだけでした。

9歳でついに歩くヴィクトリーを獲得しました。

10歳になったフェルッチオは、知性面では年齢レベルを4歳も上回っていました。

運動面では自力で歩くことができ、社会面ではクラスのトップの生徒たちと肩を並べていました。
それでもご両親はこれで十分とは思っていませんでした。

ご両親はフェルッチオの歩き方がまだ正常のレベルではないことを知っていました。
中脳障害に見られるように、ひざが曲がっていて、腕も下まで降りていませんでしたし、動き全体の協調性がなく、つま先はかなり内側に入っていました。
グレン・ドーマンも同じ意見でした。

フェルッチオの身体は日ごとに大きく重くなっていくので、成長の過程で重力が身体を下へと押し付けます。
すでに曲がっている膝はさらに曲がり、ゆくゆくは座ったまま二度と立ち上がれないことになるでしょう。
そうなったら車椅子が手放せなくなるのです。

健常へと一歩ずつ

歩くことにかかわる問題のなかで、10歳前にいちばん目立っていたのは、つま先がかなり内側に入っていることでした。
硬直が原因のため従来の治療法では改善できないとされている問題で、苦痛の多い高額な手術が一般的な治療でした。
人間能力開発研究所ではこの60年間に、内反した足の機能を改善するために脳に働きかける方法を開発してきました。

最初のころ、グレンはスキーを履くことを提案しました。

「フェルッチオにスキーを使わせてみたらどうだろう。
スキーを履いたら、前に進むにはつま先を外に向けなければならない。
そうしないとスキーが交差して動きが取れなくなってしまうからね。」

  

スキーを使うという新しい方法のパイオニアです
お母さんは感動しました

スキーを履いてたくさんの距離を歩きました。
その後スキーなしで歩いたとき、つま先はほぼ正常な位置になっていました。

15歳の時点での究極の挑戦は、脚を完全にまっすぐにすることでした。
右脚ではそれができるようになりましたが、左脚は目標に届きませんでした。
現在も未だ到達していませんが、これが達成されれば歩くことは完璧と言えるでしょう。

プログラム卒業のためのゴール

グレン・ドーマンは、プログラムから卒業するためにフェルッチオが達成しなければならないゴールを3つ提案しました。

  • 観客の前で体操の演技を披露すること
  • 正式な場で学術的なレクチャーをおこなうこと
  • 人前で歌を歌うこと

これを受けてフェルッチオは体操の基本を身に着けるべく、想像を絶するほどの努力で取り組みました。
これもまた、世間では中脳障害の子どもができるとは思いもしないことでした。
下半身が弱かったため、フェルッチオは上半身に信じがたいほどの筋肉をつけたのです。
世界レベルの体操選手がコーチについたのですが、フェルッチオが体操の演技をしたとき、コーチはフェルッチオの「スウェーディッシュ・フォール」の技は、トップクラスの体操選手を除けば、それまでに見たなかで最高だったと感嘆しました。
こうしてゴールのひとつを達成しました。

フェルッチオは英語を習ったことはありませんでした。
家庭でおこなう高校の必須学科として英文法と文学を学んだことはありましたし、運動プログラムを手伝いに来る人たちと英語で会話を交わすチャンスはありました。
しかし6か月ごとに両親とともに人間能力開発研究所を訪れていたフェルッチオは、自然に英語を身に着けていきました。
イタリア語を使うご両親のために、レクチャーやスタッフと話すときには、フェルッチオが通訳の役割を果たすこともよくありました。

ふたつ目のゴールは、人前で話すことは得意だったフェルッチオにとっては、簡単に達成できるものでした。
このゴールを与えられてから数年の間に、フェルッチオは人間能力開発研究所にやってくる家族、エヴァン・トマス研究所の生徒たち、さらには毎年研究所でおこなわれる世界会議の参加者の前でも、レクチャーをおこないました。

  

イタリアのファウーリアの市長と市の評議会の前で
フェルッチオは人間能力開発研究所の旗を身にまとってスピーチをおこないました
これはイタリアの人間能力開発研究所支部の創立30周年を記念する特別議会で
市長の栄誉をたたえてのスピーチでした
  

三番目のゴールの達成には少し時間がかかりました。
発音・構音にまだ問題があり、歌うことはとても難しかったのです。
グレンもそれを知っていました。
6か月後フェルッチオは“O Come All Ye Faithful”をラテン語で歌い、卒業というゴールの条件を満たしました。

大学生活とその後

フェルッチオは18歳になるまで、学校の授業なるものを全く受けたことはありませんでした。
理由は簡単で、毎日のプログラムが忙しくて、小学校も、中学校も、高等学校も行く時間が全くなかったからです。
イタリアの全国的な大学入試にあたる“La Lauria”を受験し、優秀な成績を収めました。
特に数学はトップクラスの一人でした。
フェルッチオは大学生活を始める決心をし、かつてガリレオ・ガリレイが教鞭をとったこともあるパドゥア大学の数学・科学学部を志願し、入学を許されました。

週に3日大学に通い、あと2日の講義は他の学生からノートを借りて勉強しました。
さらにクラスメートが録音してくれた何時間もの講義を、家でプログラムをおこないながら聴きました。
大学へ通うには水上バス、電車、バスを使いましたが、歩かねばならないところもありました。

大学での最初の年がいちばん大変でした。
学年末試験に合格できずに進級できない学生は50%以上になりましたが、フェルッチオは良い成績で進級しました。
勧められて大学院で修士号を目指し、修士号取得後は、博士課程に進むことができました。
コンピュータサイエンスを学び、博士論文を完成させました。

その後も学問を続け、講義をしたり、いくつかの学術論文を発表したりしました。
ボローニャ大学のコンピュータサイエンス学部の教授として受け入れられました。

  

お静かに! プロフェッサーは仕事中
  

数年前、フェルッチオはフィラデルフィアで開催された会議の講演者として招かれました。
この時研究所のスタッフも聴講してほしいとフェルッチオは望みました。
高度な数学の論文のようなレクチャーは、私たちスタッフに理解できる内容なのかどうか尋ねたところ、フェルッチオは笑って「理解できないでしょう」と言いました。

フェルッチオ博士のアドバイス

プログラムをおこなって、いちばんよかったことは何ですか。

なによりも確信をもって言えるのは、運動面の大きな変化です。
努力に見合った結果が出せたこと、その結果を十分に活用できたことです。

プログラムをおこなっている子どもたちへのアドバイスをお願いします。

現状を改善するための唯一の道であるプログラムに忠実であること、そしてできる限り楽しんでプログラムをおこなうこと。

プログラムがとても重要だと思うのはなぜですか。

障害をもつ子どもにとってプログラムが絶対に必要なのは、健常になれるからではありません。
もちろん健常になれば嬉しいですが、それよりも、非常に重度な障害を表面化する前に抑える可能性があることを、本人が感じ取れるだけの進歩をもたらしてくれるからです。

現在、フェルッチオ教授はボローニャ大学の理論コンピュータサイエンスの修士課程で教鞭をとっています。

フェルッチオは人間能力開発研究所のプログラムを100万年もおこなっているようなものだとグレン・ドーマンは言っていました。
でも現在では、ヨーロッパで二番目に古い歴史を誇るボローニャ大学の構内を独りで歩いています。
車椅子は使っていませんし、他の人の暮らしをガラス窓の外からうらやまし気に覗くこともありません。
ご両親が息子に夢見たことを実現させ、それを超えるところまで達しました。
人間能力開発研究所の定めたゴールをすべて達成し、さらに先へと進み続けたのです。

  

グレンとケイティーとともに
イタリアのピサで開催された人間の可能性のための
世界会議の受賞者のためのディナーで

フェルッチオは人間能力開発研究所のプログラムを本当に長いこと続けました。
そこには息子への愛情と、息子を救うためには天さえも動かそうという意志をもったお母さんの存在があることは言うまでもありません。

この長い、長い時間の中、容易ではない運動プログラムだけでなく、お母さんがつくった同じくらい高度な知性面のプログラムをしてきました。
このプログラムはフェルッチオにとって刺激であり、喜びでもあり、結果として世界有数の大学で学ぶことができるようになったのです。

フェルッチオは現在50歳になろうとしていますが、本当に長い間おこなってきたプログラムの一部を今でも続けています。
ボローニャ大学の構内、彼が住んでいる街などいろいろなところで、フェルッチオと出会うかもしれません。
あるいはフィラデルフィアの人間能力開発研究所のキャンパスで、今のプログラムに加えるものが何かないかとチェックしている姿を見かけるかもしれません。

フェルッチオはたくましさと、プログラムをこれだけの長期にわたっておこなうという決意の固さにおいては、世界記録の持ち主です。
時間のことは気にしていません。
常に今日より明日はよくなっているのですから。